梅林寺の「自然葬(樹木葬)」は、従来の自然葬(樹木葬)とは違い、墓石代わりに樹木を植えるのではなく、ひな壇を設け、周りには芝生や季節ごとに彩りを飾るように様々な樹木を植樹する自然葬(樹木葬)となります。
お寺の中にある庭園のような印象を受けていただけると思います。
自然葬(樹木葬)プランとして、他の方と一緒にお眠りいただく「合同自然葬」や、個別でお眠りいただく「夫婦自然葬(樹木葬)」や「家族自然葬(樹木葬)」がございます。
土に還る特殊な骨壺に入れ替えての埋葬となります。
家族自然葬(樹木葬)プランは改葬にもおすすめさせていただいております。
年間管理費等は一切かかりません。
最後は自然に還りたいという故人の思いをカタチにした新しいタイプのお墓です。
梅林寺の開山(初代住職)は、本寺(現在の茨城県石岡市宇治会源照寺)の第二世、天室修悦大和尚で、天外栄呑和尚という人の開基により創立しました。
栄呑和尚は出生も亡くなった日も不明ですが、開山修悦和尚の亡くなったのが文禄2年2月20日ですので、おおよそ天正(1573年~1593年)あるいは文禄年(1593年~1596年)中に、開創されたことになります。
これは今より四百数十年ほど前、後陽成天皇の御代で豊臣秀吉が伏見城を築いた頃にあたります。
初めは東京南千住小塚原の辺りに在り、龍源寺と称していました。
萬治年中、徳川将軍家綱の頃、伊勢亀山藩主石川主殿頭忠總の息子、甚十郎邦總といわれる人が、幕府の中奥藩士、御膳番等を勤めていましたが、病のため公仕を辞し、箕輪の里の下屋敷に閑居されました。
邦總の臣に後述の天満宮由来にある里見家家臣の子孫、平井八兵衛長次という人があり、主君の病悩平癒武運長久祈願のために、小塚原の裏地、天神山に祀ってあった綱敷天神尊像と共に、現在の箕輪(三ノ輪)へ移転して、華嶽山梅林寺と改めて建立したと伝えられています。