了俒寺は、徳川家光が三代将軍位を継いだ翌年-寛永元年(1624)に、日安尼によって現在地に草創されました。
※過去の宗旨・宗派は問いません。
了俒寺は、徳川家光が三代将軍位を継いだ翌年-寛永元年(1624)に、日安尼によって現在地に草創されました。当初、日蓮宗の不受不施派に属しており、感応寺九ケ院の中でも唯一寺号を有する特別な寺でした。日安尼は、徳川家康の異父弟(松平康元)の長男(忠良)の側室で、信濃国袮津(長野県小県郡)に五千石を領した松平忠節(忠利)の生母にあたります。明暦2年(1656)に日安尼が示寂し、忠節はその菩提を弔うために草庵を一寺として建立し、母の法名『隨龍院殿正真日安大禅定尼』にちなんで“隨龍山了俒寺”と号しました。その後忠節も当寺へ葬られ、義兄の金田氏と共に両家代々の当主と家臣たちの菩提寺になったということです。
元禄11年(1698)、不受不施法乱に直面し、時の住職であった妙用比丘尼は入牢を命じられたのち配流となり、翌年感応寺とともに天台宗に改められ、稟光和尚が入山しました。現在の本尊の阿弥陀如来はこの年に安置されたものと思われます。
その後、明和九年(1772)の大火により谷中の諸寺院と共に了俒寺も灰燼に帰しました。
近年においては、広忍和尚が17歳で住職となり、43軒のお檀家のもと法務につきました。広頴和尚の時代には関東大震災にみまわれましたが、おりしも一ケ月前に本堂の修復が終わったところであったため、堂内に大勢の避難者を収容し、暫くの間生活の場として提供したということです。広信和尚は復員後、終戦直後の混沌とした世相の中で、クラシックレコードコンサート(杜の音楽会)を定期的に本堂で行い、荒みがちな若人の心に灯をともし続けました。それが縁で結ばれた方々も多かったそうです。
昭和58年(1983)広信和尚が示寂し、当時大学4年であった現住職が法燈を継ぎました。平成8年(1996)に本堂大改修と庫裏客殿の新築をし、翌年には第256世天台座主渡邊恵進大僧正猊下御親修のもと、落慶大法要が執り行われ、その寺観を一新しました。